昭和53年04月20日 朝の御理解



 御理解 第57節
 「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」

 問題は本当に神を杖につけれるまでが信心なんですね。確かに神様を杖に、だから結局その神様を信じると言う事。神様を信じておらなければ、楽な心は生まれません。どんな場合であっても、神様のお働きの中にあるんだと。しかもそれは氏子可愛いの御一念だけしかないんだと信ずる事が、金光教の神様を信ずることなんです。そういう神様を心に頂いておる限り、いわゆるどんな場合であっても安心なんです。
 信心しておっても、金光様を朝から晩まで例えば唱えておりましても、やはり金に縋ったり木や竹に縋る。お金がありますとお金に縋る。まあ私は健康だけには自信を持っとりますと言うと、結局自分の健康に縋るね。智恵才覚の優れた人は、やはり自分の智恵才覚に頼る。ですから本当言うたらそういう、言うならば金も頼りにゃならん。健康も頼りにゃならん。まあ自分の智恵分別と言う様なものも実は頼りにはならん。
 だから一遍それでね、もう言うならば自信を喪失してしまう。無くしてしまうね。そこから神様へ縋る。そして神様のおかげを頂いて、本当は判るんじゃないかとこう思うですね。ですからその過程というものが尊いのです。大事なんですね。勿論神を杖につけば楽じゃという程しに、神様を信じれると言う事は、お徳を受けると言う事だと思うんですね。神を信ずる者は多いが、神から信じられる氏子が少ないとこう言う。
 そういう意味での、神を信じているというのは、まあ断片的とでも申しましょうかね。神様はござる。やっぱ一心を向けりゃ、おかげを頂けれる。私はこういう体験を頂いた。という程度の信心であってね。もう本当に一切が神愛だと信じれる時にはもう、神様に信じられる。やはりお徳を受けると言う事です。御神徳とは神様の御信用じゃと仰せられますように、その神様の御信用を頂くため、その神を信じそして、神様から信じられるまでのその過程が大事にしなければいけないんです。
 そこから頂けれる神様、その神様を杖についての事であるから安心だと言う事になるのですね。簡単なこれは御教えですけども、大変な言うならば教えです。まあ何かがあります。不安が。心配だ。結局私も大抵神様を信じとるようであるけれども、未だ本当には信じていないと言う事になるのですね。昨日東京の稔さんが、おかげを頂く要諦というのを「親先生を信ずる以外にない。」と「もうこれ一言だ」と、まあ稔さんの場合は、確かにいつもそれであります。
 けれども信ずるというても、やはり信ずる過程というものがですね違う。なら末永先生が親先生を信じておるという、同じ信じておると言うても、信ずると言うても、非常に稔さんの場合は単純な信心、信じ方だと言って良いでしょうね。そうすると末永先生の場合は単純じゃない。もう実に複雑な中から親先生を信じておる。親先生を信じておると言う事は、そのまま神様を信じておると言う事である。昨日一昨日四時の御祈念の時に、丁度末永先生がブラジルの方の事で、まあ福岡へ行ったり来たりしておりました。
 その後の御祈念の時ですが、昨日そのお話をしましたがね。昨日柳田と言う野球選手のお話をしましたが、名前があるだろうがその名前にも恐らく御理解があるだろうと。後から誰かが正教さんでしょうかねやっぱり、調べてきてました。そしたら真宏(まさひろ)と言うのです。真(まさ)というのは真なんです。宏(ひろ)というのは宏大無辺の宏、う冠にこう書いた宏いという、そして「まさひろ」と読むんだそうです。愈々はっきりしてしてくるでしょうね。その野球のルールで御理解を下さっておる。
 その柳田選手が二塁にこう走り込んだところを頂いた。それでこれがまた三塁、そしてホームインするまでには、何処でやられるか判らない。けれどもね。そのホームインするまでが言うならば信心であって、簡単にそういうけれども、それはまあ言うなら大変なことなんですね。一番初めにブラジルに、あちらに布教に出ます時に、神様はもうどう言う事があっても、それこそ神馬に跨がって蹴散らして行く勢いと頂いたね。
 もうそれこそ神馬に跨がって、それこそ蹴散らして行く勢いで、それこそ持って行けないものでも持って行けれる、それこそ日本刀まで持って行っとる。(笑) そして今度まあ一塁打から二塁打へ、そしてそういう時は今度は、まあ本部では「さあ合楽が、ブラジル布教、南米布教と言うとるばってん、絶対行けないよ」、大体行けない様になっとるんだそうです。今は。それに行こうと言うのですからね。
それでもいろいろ手掛かりが有り、そして本部の方でも大変協力的になられたと言った様なことからね、まあ何とかそこに道を開かなければならないね。それこそ南米に一粒の種が播かれたんですから、それが一粒万倍のおかげを頂く、天地の親神様の願いが南米の地に成就することのために、私共は一生懸命ならなきゃならない。その願いそのものが大きいですから、同じ信じるというてもどういう複雑な中にでも、それが信じれれる働き、今度は神馬に跨がって蹴散らして行く様なというわけにはいかんね。
 さあ二塁打になったから安心でもなからねば、三塁打に行ったからもう良いと言う事でもない。ホームインするまではまだまだ。言うならばその柳田と言うのが、まあ末永先生のことでしょう。まあ素直な受け物を持っているというのが柳の田とこう書いてある。真に広い真宏というのがね、真に宏大無辺な神様のおかげをね、南米の地に広げようという、まあそれこそとてつもない、まあ野心的と言や野心、そういう大きな野心を持って南米布教するのですから、とてもとても一山二山の修行ぐらいはもう当たり前だと思うておる。このくらいの修行は当たり前だと思うておるね。
 だからどんなに山があっても、神様の働き、例えば本部の方が絶対合楽が南米布教しよると言いよるけれども出来んと。はあ本部がそげん言いござるなら、これは出来るばいとこう、そういう信じ方なんですね。まことに広いです。やっぱりね。そしてどういう中にあっても、とにかく「神を杖につけば」と。人間心を出さずに、それこそ神様一本で縋っていくことです。
 その過程でね、丁度十八日の月次祭の時に、神饌ものがずっとこう先生方から先生方へ渡って行く。丁度あの菊正宗が三本丁度私の前を通るときに、皆さんもご承知のように月次祭の度に高橋さんがお供えをなさいます。と御心眼に大根の干したのがね、こうぶら下げてある所を頂いた。まああれを沢庵漬けにするんでも、ちょっとジワッとする位に干しましたりね、まあ大根はあのまま食べても良いし、言うならばまたは煮付けで頂いても良いし、ならもちっとと言うならば沢庵漬けにしても良いわけです。
 けれどもあれをもっと干し上げて、そしてあれを千切りに切りますと、言うなら干し大根なんですね。これはもういつまで置いても悪くならないという、言うならば御神徳の世界です。はあ今高橋さんはその様なところを通りござるけれども、未だその皺が寄っちゃいるけれども、未だ切られるまでにはない。「まあ一時ぶら下げられにゃんばいな」(笑)と思わせて頂いた。そのことを私、高橋さんが昨日お届けがありましたから、「実はね。こう言う所を今あんた通っとるとよ」。
 「それが先生、私もびっくりしたんですけれども、こう頭を下げておって、ちょっとこう頭を上げた時に、丁度僕の前に御神酒が通っておる所でした。で何か特にその奇異な思いがした」と、こう言うんですよね。「そうじゃろな。私もその時に頂いたのが干し大根が干し上がってはいない、未だ切られるまでには、未だちょっとぶら下げられとかにゃいかんと言った様な感じじゃったが、楽しい事だね」と、こう言ったけれどね。実際はなら高橋さんが果してそれを楽しいとして頂けておるかどうかね。
 大体のことは判った。特にやはり神様が白羽の矢を立てておって下さるからこそ、こういう修行もさせて下さるんだと言う様な事は判っておるけれども、やっぱりぶら下げられておる時、修行させられる時には苦しい。「だからここでね一つ大きな悟りを開いて、そのことが有り難いと言う所までいかなきゃいけないよ」と。例えば私が借金の断りに行く時には、もう何が何と言うても借金の断りぐらい辛い事はない。
 どんなに神様を信じておっても、神様が修行させて下さっておると言う事が判っておってもね、今日もやっぱり断りに福岡まで行かなきゃならんが、どげん言おうかいや家に入ると言う事すらが、家の回りをぐるぐる回る、行くけれどもなかなか入られんの。もう足が縮んでしもうてから。その時にいつも申しますように、大城の電車の停留所で、ね。当時照国が横綱を張っておった時分でしたけれども、その横綱の弟子にするというので旗崎で相撲があった。地方巡業にやって参りました時に。
 その時に、照国にお酒を持って行った話を善導寺の小川さんと言う桶屋さんが、私にして呉れました。「はあもうちょいとたまがる。もう、とても親が見とるなら、私が相撲が好きだから、あんた、もう朝から稽古相撲の時からじゃき」ち。そしてその照国にその時分のお酒というのは、もう闇でなければ手に入らんというのだけれども、その酒屋の桶を造る人ですから、融通がきくわけです。それで特級酒を一本持ってから、照国に持って行くつもりで持って行ったわけです。
 持って行ったところが、根が好きだもんだから、チイとづつ飲みよったげなが、仕舞えたげな。(笑)そして「私が見よったらチョイとそりゃむげこつするはの」ち、言うてから私に話すのです。「今度照国に旗崎から弟子に入るげなが、とてもあれば親が見るなら『もう止めろ』ち言うじゃろう。」と言うわけですよ。もうそれこそこなすこつ、こなすこつ、もう叩いては倒れる。突いては倒れる。もう這いも立ちも出来んごとなって、土俵の向こうへと下りよるげなもん。
 それを捕まえて来てから、また土俵の真ん中さに持って来てから、踏んだり蹴ったりじゃないですけれども、その転がしたり。もうとてもあれを見よんなって、肉親の者ならやりきらんと言う話をした時にですね、もう私の心の中に、それこそ何と言うでしょうかね。「はあー、神様がこりゃ、大坪を末は横綱か大関かというくらいに願いを掛けて下さるからこそ、こういう修行もさせて下さるんだなあ」と。転がしたり投げたりされておる。それこそ、這いも立ちもなり切らん様な状態の時です。
 さあこうやって神様が断りに行けと言われるから、行く事は行きよるけれども、どげんして家に入ろうかと思う。そして入ったならどげんしようかと、その思うただけでも足が竦んでしまうくらいにある。本当にそうですよそれをしだごだにしてね、放っからけとったらもう実意を欠く事になるね。その時にですもう本当に末は横綱かという神様の願いがあるからこそ、例えばこ奴は詰らんと言うたら、もう稽古を付ける筈がない。是は見込みがあると思われるからこそ、稽古をつけて下さってあるんだなと思うたら。
 もう有り難うなってから、元気が出てから、もうそれこそ有難涙に、それこそくれる様な感じです。今でもその小川さんが話した状況をありあり思いますけどね。もうそれこそ何か集金に、断り行くとじゃない、金集めに行くごたる勢いで行くですからね。もう本当に、自分の心の一つの開けた状態という世界ちゃ素晴らしいですよ。そして行ったらいつもと違ってニコニコです。「もう大坪さんこれで来んで良かばい。もうあんたが出来た時で良か。もう来んで良か」ちそれっきりでした。ね。
 問題は心。だから高橋さんね。そういうなら今、ぶら下げられてきついと言う所においては同じだから、そういう何か、これは開こうとして開けるもんじゃない。神様が何かそこにね、キッカケを下さった途端に開けて来る。その開けた心がねいよいよ杖になるのです。楽でしょうが。今まではとても行けなかったところに行けれる。今まで登れなかった所に、いわゆる、愈々神を杖についたと言うのは、そういう言うならば、神を言うのだと私は思います。
 同じ言うなら、柳田真宏と言う。まことに広大、広がるということですけれども、その中にも一塁、二塁、三塁というように過程があるって、ホームインするまでにはね。そこんところが、私は開けた時に、初めて本当の意味において神を杖についたのであろう。証拠には、今までとにかく足が竦むようにあったのが、かえって借金の断りじゃない、何か金でも集めに行くごたる、朗らかな有り難い気持ち一杯でやらしていけれるという、そういう神を頂きたい。ね。
 だからねもうそれこそ信心というのは、いよいよまあだ、高橋さんにこれ以上の信心をせろと言うても、これ以上どうして出来るかと言えば言えれるでしょう。形の上のことでは。けれどもやはり、これは信心が未だ足りんのだという生き方を以てするとまだまだ足りないと言う事が判ります。限りがないです。そこから真の道も開けて来る。そういう時に、神を杖にもう以来というものは、どう言う事があってもです。
 いつも神を杖についておるから、楽でどんな修行の中にあっても有り難うして楽しうして、たまにはなら愉快な心にまでもなれる様な信心が開けて来たんです。ただ神を信じておると言うてもね、お互いが不安があったり、心配があったり、はぁいまだ神を信じ切っていないんだな。本当に大きな悟りを開いて、神の働きの中にはね、それこそ末は横綱か大関かという大きな願いが掛けられておるからこそだと。言うなら一切神愛であるという、その悟りが心に本当に開けた時にです。それこそ神願有り難しというお礼が言えれる時だと思うです。そういう神を杖につきたいですね。
   どうぞ。